◆危機管理

政府は今週末にも一都三県を対象とする緊急事態宣言を再発令する方向で検討に入ったとのこと。

となれば、直近で気になるのが成人式です、我が街では1月10日に3分割で予定されていますが、3分割したところで集会であることは間違いないので、危機管理の一例として提案すれば、直ちに中止を発表すべきかと思いますし、中止が無理ならば、来年合同で再び開催するからと参加自粛を呼びかけるなどの工夫が必要かと思います。

成人式は一生に一度の晴れ舞台かもしれませんが、出産や大学入試などと違い、予定通りでなければ取り返しがつかないというものではありません、生活習慣上のセレモニーですから、来年の成人式に合同でやっても問題ないはずです。

何が大事なのか危機管理の観点で考えれば自明の理でしょう。ですが昨年緊急事態宣言が発出された際、緊急事態だから顔を突き合わせて情報交換すべきと思っていると公言する我が蓮田市長のことですから、決断は到底無理でしょう。

ただし、これはあくまで私の考えであって、ものの見方によっては違う考えもあって当然です。例えば緊急事態の対象が飲食に特化され、充分な3密回避がされるなら判断に迷うでしょう。緊急事態の内容が不明な現時点ではある程度予測を立てなければならない故です。

とはいえ、緊急事態宣言が今週末に発令されることが明らかなのですから、その前提で自治体として次の一手を考えておくべきことは誰しも異論無いでしょう。一例として私は成人式中止を上げましたが、もし実施するならば、緊急事態発出を考慮していない時点での計画なのですから、成人式の内容の見直しは最低限度必要であり、その選択肢の一つとして中止・来年への延期を提案した次第。

もし何も新たな対策を講じることなく成人式を実施するならば、よほどの理由が求められると思います。

蓮田市の入札制度について

いよいよ明日から一般質問が3日間行われますが、私は明後日10日(木)の2番手ですから早ければ9時半ころからとなります。

私は6月議会以来毎回、入札制度について市長・執行部を追求してきましたが今回も一般質問で追求します。毎回答えに窮して、それこそ壊れたレコードのように見当違いの答弁を繰り返す市長と執行部の様子に、多くの市民が疑問を抱き始めたので、コロナ禍とはいえ今回の私の一般質問には満席の傍聴人となるかもしれません。

そうした中、私以外に3人の議員が何らかの入札に関する一般質問をします。毎回私が市長・執行部をコテンパンにやっつけるので、それに触発されてのことか、見るに見かねて市長応援の為なのかは、知る由もありませんが、私と同調して改革を進めるのか、抑えるのか、これは見ものです。

勿論、私が正しいとは限りませんので、たとえ市長擁護であってもマチガイとは言い切れません。重要なことは、いかなる追求であっても、擁護であっても論理がどれだけしっかりしているかです。

事の是非ではなく、情緒的な主張や本質から離れた主張をするならば、覚醒した市民の皆さんには見破られることだけは覚悟する必要があると思っています。

①「入札が終わった後でも、入札指名条件決定の経緯について公表できないのは市の方針

②「どんなに怪しかろうが、市は違法行為の調査機関ではないから関知しない」

との市長・執行部の答弁は、危機管理上あり得ない発言ですので、ここを論理的に追求します。

①は毎回、入札の公平性を保つため公表できないと繰り返していますが、入札前ならともかく、入札が終われば影響などあるはずがありませんから論理破綻しています。

②は私の追求に耐えかね苦し紛れに言ったとしか思えません。常識を疑う答弁ですから撤回するまでしつこく追及します。

◆部分社会の法理

このURLの記事がうれしくて引用しました。

最高裁が60年前の判例変更 宮城県の市議会処分めぐり:朝日新聞デジタル (asahi.com)

<引用開始>

地方議会が議員に科した出席停止処分の適否は裁判の対象となるかどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人長官)は25日、「対象になる」との初判断を示し、1960年の最高裁判例を60年ぶりに変更した。大法廷は「住民の負託を受けた地方議員としての責務を十分に果たすことができなくなるような処分の適否は、司法審査の対象となる」と理由を述べた。裁判官15人全員一致の意見。

 訴訟では、宮城県岩沼市議だった大友健さん(71)が現職だった2016年に、議会から受けた23日間の出席停止処分の適否が争われた。1審・仙台地裁判決(18年3月)は判例に沿って裁判の対象にならないとして原告敗訴としたものの、2審・仙台高裁判決(同8月)は審理を差し戻し、市側が上告した。

 大法廷は、地方議会による議員に対する懲罰は、議会の秩序保持や円滑な運営を目的としていると指摘。こうした地方議会の自律的な権能は尊重されるべきだと述べた。

 一方で、住民自治を担う地方議員は、住民の代表として自治体の意思決定に関わる責務を負っているとし、出席停止が科されると、地方議員としての中核的な活動ができなくなると言及。懲罰の判断には地方議会に一定の裁量があるとしても、裁判所はその適否を常に判断できるとした。

 その上で、市側の上告を棄却。2審判決が確定し、仙台地裁で処分の適否が審理される。<引用オワリ>

部分社会の法理については、何度か書いてきましたが、簡単におさらいすると、「日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理」です。

何、分かりにくい?ですよね。例えば「日本」を全体社会とした場合、この全体社会の一部となる社会を部分社会と呼びます、会社とか学校、団体などですね。

それぞれの社会に属するか否かの選択権があった上で属するとき、例えば入社とか入学のとき、社則や校則に同意したうえでその社会に入っていくしその規則は外の全体社会には及ばなければその社会の勝手で司法の範疇じゃないとの考えです。

なので、スカートの丈は何センチとかといった校則は基本的人権の侵害だといったところで、嫌なら退学すれば規制されない、つまり社会全体には及ばない単なる内部規定ですから、司法に訴えても却下されます。

この「部分社会の法理」という単語を目にしたのは昭和30年代の地方議員への除名処分無効申し立てに対する最高裁判決に関することだったと記憶していますが正確なところは覚えていませんので興味ある方は調べてみてください。

とまれ、この判決には自由意思で進学する学校ならともかく、直接選挙で選ばれた議員の身分や行動が議会内部で処分決定されることには、かなり無理があると思っていましたので、現代においては事実上無効であり、いづれ機会があれば判例変更されるだろうと思っていました。

昨年、議長と議会運営委員長から呼び出され、フェイスブックに自分たちの名前を書くのは申し合わせ事項違反だから削除しろ、しなければ懲罰どころか議会にかけて処分するぞと言われたので、いったんは消したご両人の名前を真実故復活させました。

その結果処分されたなら最高裁まで争い、判例変更の第一号になってやろうと思っていましたが、結局何も起こりませんでしたが、はからずもこの岩沼事件で判例変更が実現したというわけで、めでたしめでたしですが、我が街蓮田市議会においてはそうとも言えません。

というのも相変わらず議会申し合わせ事項には、インターネット等で情報発信する際、自分以外の議員の記事を掲載する場合、内容を議員に事前確認することとされているからです。いうまでもなくこれは憲法21条(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由。検閲禁止等)違反ですから、もともと決めても何の効力もないわけで、そんな申し合わせ事項を地方政府の立法機関が決めていること自体、憲法すら理解できてないのでとても恥ずかしいことです。

◆分からないことを分かったつもりで、あれこれ言う風潮に疑問

コロナが蔓延し始めた3月頃、専門家でもないのに、たかが風邪の一種だと言ったりあれこれ言うのはどうかと書きましたが、同じことをアメリカ大統領選挙にも言え、分からないことを分かったつもりで、あれこれ言う風潮に疑問を感じています。

トランプ氏の往生際の悪さは呆れてしまうけれど、それは事実とは無関係のトランプ氏の負けが間違いない場合を前提とした印象です。事実は我々にはまだ分からないので、あくまでトランプ氏の風貌や言動に起因する印象からの推測に過ぎません。

多くの方が、あたかも悪役トランプに対する清廉潔白なバイデン氏が市民の支持を得て勝ったかの様に思っているようですが、事実はバイデン氏もトランプ氏も共に史上最多の7000万票超の得票を得ているということです。

これが分かりえる明らかな事実です。では私はどう思うかと言えば、トランプ氏の言動には嫌悪感を覚え、あれが世界のリーダー?と思っています。おそらく大多数の方特に知識層の大半は同じ思いでしょう。

ですが、これはあくまで主観的に希望を織り交ぜた個人の感想に過ぎません。事実はこうした思いとは別です。

この点を考慮すると、今回菅総理が各国首脳がバイデン氏にコンタクトしたのを見て電話会談に踏み切ったのは、まあ最良の選択でしょう。勝ち負けが確定しない段階で先走ってバイデン氏にすり寄って、万一トランプ氏が逆転したら目も当てられないでしょうから、とりあえず各国の動向に合わせるしかないと思います。

菅総理の日本学術会議任命拒否に関するしどろもどろの回答にはトランプ氏同様に往生際の悪さを感じますが、こちらは動かしがたい事実が前提なので、事実として菅総理には呆れるばかりです。

ですがそのことと、菅総理のバイデン氏への対応評価は全く別問題ゆえ、この点は評価する次第。

日本学術会議任命拒否問題

この問題、そんなに難しい問題ではなく明らかに菅総理の間違いだと思うし、姑息な論点ずらしが通用する相手ではないのでさっさと白旗上げた方が良い、そうしないと泥沼にはまると以前書きましたが、まさにその通りになってきました。

論点ずらしにそうだそうだと同調する人は、ハッキリ言ってあまりオツムがよろしくない。どんなに同調し大きな圧力となったところで、当人たちが勝手にそう思うだけで法治国家である以上、法解釈の変更を明示していない限り同調圧力の効果はゼロ、ゼロは何個集めてもゼロ故、無意味です。

●日本学術会議法 第七条

 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。

●日本国憲法 第六条

 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

<ウィキペディアより引用開始>

1983年に会員選定が選挙から推薦制に変更された際、政府は国会答弁で「総理大臣の任命で会員の任命を左右するという事は考えておりません」「任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうに私どもは理解しておりません」「その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」「政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と政府答弁を行っている[16]。 また、当時の中曽根康弘首相も国会で「学会やらあるいは学術集団からの推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」と形式的任命であると答弁している[17][16]。

注)[16]: ^ a b “日本学術会議 昭和58年の政府答弁「形だけの任命をしていく」”. NHKニュース. 日本放送協会. 2020年10月10日閲覧。“菅首相の任命拒否に「違法性」?学術会議の推薦、過去答弁との矛盾。解釈変更はあったのか”. BUZZFEED. 2020年10月11日閲覧。”第100回参議院文教委員会第2号昭和58年11月24日国会会議録”. 2020年10月11日閲覧。

注)[17]:^ 夕歩道中日新聞 2020年10月2日

<ウィキペディアより引用終わり>

◆正義感の踏み絵

日本学術会議の任命拒否事件は、我々日本人の正義感の踏み絵だと思います。

菅総理擁護派は一生懸命日本学術会議をバッシングしますが、どんなにバッシングしたところで、何故任命拒否したのか理由を言わない、いや言えない事を正当化する理由にはならないからです。

私がもし菅総理を尊敬し信じる立場であったならば、理由を言わない事には違和感を覚え、尊敬し信じる人物・組織の行為に対して説明を求められているのに、その必要はないなどと言っていたなら、尊敬の念も消えてしまうでしょう。

自分が尊敬し信じる人物・組織を擁護する気持ちは分りますが、その尊敬し信じる人物や組織の行為に対して説明を求められているのに答えないで隠ている事を擁護するとしたらその時点で、その人物や組織の行為に対して正しい事と信じていないことになります。正しいと信じているなら隠す必要は無いですからね。

擁護する相手を正しいと信じていない、つまり不正をしていると思っていて、その説明責任を拒否することを支持すると言う事は不正に加担している訳ですから、日本学術会議の任命拒否事件は、我々日本人の正義感の踏み絵だと思わざる得ません。

マンジュウに毒を入れただろうと疑われた時に、一口食えば済む事なのにそれを拒否してあれこれ説明したり、言いがかりに応える必要はないなどと言っても、疑惑は深まるばかりで、疑いが晴れることはありません。

◆君死にたまふことなかれ

この与謝野晶子の詩の一説はあまりにも有名ですが、高校生の頃このフレーズの本当の意味を知らなかった私は今は亡き母から、「これは反戦歌で直接読めば天皇批判とも受け取れる」と教えられました。

当時は、単に英雄に憧れる心理でゲバラに憧れていた私は、今とは比較にならない天皇を頂点とする軍国主義真っただ中にあって旅順攻略戦に加わっていた弟の身を案じた詩を詠んだ与謝野晶子に、ゲバラやカストロのような派手なドンパチこそないけれどスゲーとたまげました。

ちなみに特にタマゲタのはその3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱っている部分です。

当時は70年安保騒動の真っただ中でしたので、よけいにたまげました。なぜかと言うと、当時高校生だった私は毎週繰り広げられていた新宿駅騒動にやじ馬で参加したり、訳も分からず学生運動の集会に参加して、先輩たちに話を聞くとどうも70年安保そのものをよく理解していないことが分かり、親や社会の庇護の下で、庇護を受けている相手に駄々こねているだけの革命ごっこだなあと呆れていたので、胆の据わった与謝野晶子に驚いたのです。

以来、齢半世紀を重ね自分の人生を振り返ると、当時流行っていてよく人に叫んでいた「日和っているー」との批判言葉は、ゲバラや与謝野晶子に憧れながらも彼らの足元にも爪の垢ほどのこともできなかった自分にこそ向けられるコトバであると実感しています。

あ、念のため言いますとゲバラや与謝野晶子に憧れたからと言ってゲリラになったり文芸家になるという意味ではありません。権力や権威に屈することなく己の信念を貫き通すその生き様に憧れたという意味です。

こうした反省もあって、せめて自分が歩んできた人生で身に着けたノウハウを最後は社会のお役に立てたいとの思いがあり、50代で大学院に入りそれまでのまちづくりの経験を体系的にまとめる研究をし、それをさらに地域に役立てるために市長を目指した次第です。

研究までは自分でできることですが、市長になるのは市民の皆様の合意が無ければ勝手には出来ませんので、次の市長選でどうなるかは分かりませんがどういう結果であろうと、それが私が提示した新たな問題意識に対する市民の評価ですから楽しみです。

もし勝てば、街づくりの専門家として、こんな地方政治があったのかと歴史に残る地方政治で皆を驚かせますし、もし負ければ私の理想は単なる独りよがりにすぎないことが分かるので、それも真理追及故有難いことと思っています。

【本文】

君死にたまふことなかれ   

旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて

   與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも、

親は刃(やいば)をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの

舊家(きうか)をほこるあるじにて

親の名を繼ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、

すめらみことは、戰ひに

おほみづからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獸(けもの)の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

◆相手が悪い

菅総理は、悪い相手と喧嘩してしまったと思います。相手の生活権を脅かす人事権を握った上で専門バカと思しき学者の一人二人を狙い撃ちするならともかく、日本学術会議は日本の英知を集めた集団ですから、その辺のクマ公ハチ公の与太話レベルで喧嘩しても到底太刀打ちできないでしょう。

先の拙タイムラインで、大西教授が6人の任命拒否の理由を求めた事が凄まじい破壊力と評したことはその一例です。

官邸からはやれ日本学術会議の予算が政府から出ているとか、答申が出てないとか、はたまたネトウヨさんたちは日本学術会議をつぶせ等々、日本学術会議批判に一生懸命ですが、全て論点外ですから「はあ、それで?聞いてるのは任命拒否の理由なんですが」でオワリです。

法律を含む学術界のあらゆる分野の当代一流の学者の集まりですから、素人向けの法律論をかざしてもすぐに論破されてしまいます。

推測ですが、菅総理は政府批判をした学者を任命拒否すれば日本の学術界を意のままにできると思ったのでしょう。ですがそのような圧力が効くのは、例えば組織の長が部下の人事権を行使するなど相手に対して生殺与奪できる脅しの場合です。

職を失ったり出世が閉ざされたら、普通は生活に困るし人生設計に影響が出るので圧力となりますが、学術会議会員各位はいづれも各分野における当代一流の学者ですし、日本学術会議の手当てで生活しているわけでもないので、任命拒否されてもおそらく痛くもかゆくもないでしょう。

ですが個人レベルでは痛くもかゆくもないけれど、個人の問題ではなくもっと大きな法制度の観点では大問題なので、拒否された各個人も組織としての日本学術会議も売られた喧嘩は買わざるを得ないことになります。

かような訳で、菅総理は政府批判に対して従来通りの人事権行使の感覚で日本学術会議に圧力を加えたつもりだったのでしょうが、全くの的外れでしかも官邸スタッフや配下の官僚たちの知恵を結集しても太刀打できる相手ではないので、喧嘩を売った相手が悪すぎたということです。

菅総理としてはカッコつかないでしょうが、早い段階で白旗を上げなければ、どんどん泥沼にはまっていくでしょう。繰り返しますが、ケンカ売った相手は日本の英知集団で国会における与野党の論戦とはレベルが違いますから、下記引用記事にあるように99人のリストしか見てないなどと下手な言い訳を駆使すればするほど突っ込まれ菅首相の首が締まることを自覚すべきと、老婆心ながら心配する次第。

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4099708.html

◆議員でも職員の意識改革ができる


とは思ってもみませんでした。なので、もし私が市長になったなら、まずはここから始めようと考えていたのですが、この9月議会で気付いたのは、議員でも市役所職員の意識改革はできるのだとの手ごたえでした。


1年前の9月議会では、補正予算の組み方があまりにもズサンなので、それを追求し反対討論を行いました。例えば3か年の債務負担行為の予算取の理由を聞くと単年度より安上がりというので、単年度の見積もりと3か年の見積もりの単価を問うと同じだったり、ボーリングなどの調査内容を聞くと答えられなかったりと呆れてしまいました。


何より、リースの無駄を追求し、実際に起債と比べてどれくらい市の予算に無駄が生じるかを示し、12月議会でも引き続き追求しました。こうしたことは、血税を使っているとの意識があれば、あり得ないことで、そこを先ず理解してほしくて追求した次第です。


昨年の12月議会では、ついに過ちを認める答弁を引き出しまし、その結果、あれほどあったリースがすっかり無くなり、一部では未だあるものの追求したところ、継続契約への追加だったり他に選択肢が無い状況等が分かりましたし、予算の取り方も昨年のようないい加減なものはすっかり無くなりました。


これは嬉しい誤算でした。議会でこっぴどく追及されれば、さすがに同じことはやらないようで、本当に意識が変わったかは心の内を見たわけではないので何とも言えませんが、少なくとも昨年のようないい加減な補正予算要求が無くなったことは事実です。


昨年は今までこんないい加減なことがまかり通っていたのかと市長のリーダーシップに呆れ、これが職員上がりの市長の限界かと思ったのですが、考えてみれば市長にそこまで職員の作業内容をチェックすることは不可能で、むしろ予算内容のチェックや審議は議会の仕事ですから、どちらかと言えば議会がチェック機能をはたして来なかったということかもしれません。


議員が、支援者の要望を通そうと議会で質問する限り、市政を変えることなど到底不可能ですし、心ある有権者は「議員が生業ということか」と呆れています。


私はコロナ禍までは毎月のように開いていた講演や議会報告会において、「皆様のご要望でも特定個別の事案については取り上げません、あくまで市政全体にかかわる事案のみ取り上げます」宣言してきましたが、この考えは今後も変わりません。